神様の私達への願いーあわれみ深く歩みましょう
週報 三一八六
牧 師 岡田仰
あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。ルカ六・三六
この世は、打算的、信賞必罰的です。味方、好きな人には良くしますが、敵、嫌な人にはよくしません。しかし、そんな世にあって、神様が、私達神の子に、教会に期待している事は何でしょうか。それは、何よりも、周りの人に、あわれみ深くあることです。
どうしてなのでしょうか。それは、私達神の子は、神の憐みを味わっているからです。ただ神の憐み深さによって、罪をゆるされ、神の恵みを受け、永遠の命に与かっているからです。
では、あわれみ深くとは、どういうことでしょうか。それは、自分のしてほしいことを、周りの人にしていく事です。具体的には、第一に、弱さがあっても、人格を尊ぶことです。第二に、ゆるす事です。罪や失敗のない人はいません。第三に、仕返しをしない事です。仕返しは、憎しみの連鎖を生みます。第四に、隣人の必要に手を差し伸べる事です。つまり、自己愛の人生、自分のためだけではなく、隣人愛の人生、隣人のために生きる事です。
ならば、そのあわれみ深い歩みは、一体何を私達にもたらすのでしょう。第一に、憎しみの連鎖を断ち切ります。仕返しの連鎖を止めるのです。第二に、この神を知らない世に、神を、神の愛、神の憐み深さを証しすることになるのです。そして、第三には、そこには、神の報いがあるのです。人は報いてくれなくても、神様ご自身が、あわれみ深くあるところに、神からの祝福を与えて下さるのです。
私達は、世の人と同じ様に、打算的、信賞必罰に歩みやすいです。しかし、神様の願いを覚えましょう、神の子としていただいた者として、あわれみ深く歩みたいものです。「主よ、私達が、少しでもあわれみ深く歩めますように。」
幸いの種―幸いをもたらす四つの姿勢
週報 三一八五
あなたがた貧しい人たちは、幸いだ。神の国はあなたがたのものである。 ルカ 六・二〇
聖書は、「人は、自分のまいた種を刈り取っていく」という。不幸の種をまくと不幸を刈り取り、幸いの種をまくと幸いを刈り取るのです。そして、種をまいて歩むという事は、毎日をどのような姿勢で歩むかという事につながります。
では、幸いの種をまくとは、不幸の種をまくとは、どのような姿勢で歩む事を言うのでしょうか。イエス様は、私達に、幸いな明日、人生を歩むための四つの姿勢を教えて下さいました。
1 心の貧しい姿勢をもってこそ 人間の限界、自分の罪深さ、弱さを自覚して、主の憐みを求めて歩む人には、神共にいます人生が与えられますが、反対に、自分の罪、弱さを自覚せず、神の憐みを求めない人には、神共にいます人生は与えられません。
2 飢え渇きをもってこそ 飢え渇きをもって、神の恵みに、学びに、仕事に取り組む人は、成長を得、恵みの豊かさの世界に与かります。しかし、飢え渇きのない、自己満足の人は、成長がなく、かえって退化し、恵みの豊かさに与かる事はありません。
3 自分の十字架、重荷を負ってこそ 主が与える使命、自らの重荷を背負って歩む人は、やがて、そこに神の計画の実現、神の実りを見るようになり、使命、重荷を背負わず、ただ安逸を目指して歩む人は、神の実りを見る事はありません。
4 キリストの旗を掲げてこそ 私達が、キリストの旗を掲げて歩む時、必ず戦い、反対や中傷を経験しますが、そこには、神の報いも伴います。しかし、その戦いを避け、ただ風見鶏のようにして歩むなら、そこに、神の報いを得る事は出来ないのです。
あなたは、どのような種をまきつつ歩んでいますか。主の教えて下さった幸いの種をまきつつ歩んでいますか。それとも、不幸の種をまきつつ歩んでいますか。
霊的いのちが実るためにー新しい酒は新しい皮袋に
(週報三一七九)
「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。」
ルカ 五・三八
どうしてあなたの弟子達はみんなと同じように断食しないのかという問いに対して、イエス様は、こう答えられました。「新しいぶどう酒は、新しい皮袋に」。
これは、生物がそうであるように、私達にはそれぞれ自分の特性に適した生き方があり、徒に周りに合わせるのではなく、自分にあった生き方で生きるべきだという事にもなりましょう。
しかし、特に、霊的な面において、この事はとても大事な事なのです。新しいぶどう酒とは何でしょう。それは、私達キリスト者の事です。イエス様の十字架の救いに与かる時、私達は新しい霊的いのちを与えられるのです。
それ故に、私達の霊的いのちは、古い皮袋の中では上手く実らず、新しい皮袋でこそよく実るのです。では、古い皮袋とはどんなものでしょうか。それは、
①律法主義―自分の正しさに立つ、
②享楽主義、楽しい事こそ幸い、
③物質主義―物の豊かさが幸いをもたらす、
④合理、効率主義―無駄な事をしない、
⑤伝統主義―伝統に固執する、です。
もし私達が救われても、これらの古い皮袋の中で生きるなら、せっかくの霊的いのちは上手く実らないのです。
では、どこで実るのでしょうか。私達キリスト者は、新しい皮袋の中で生きるべきです。キリスト主義の中に生きるべきです。
①自分の弱さを自覚し、イエス様にすがる、②重荷を負う所にも幸いがある、③物よりも、品性、生き方を大事にする、④不合理、無駄の中に価値がある、⑤今日の御霊の声に聴き従う、この福音主義の中に生きてこそ、私達は、霊のいのちは豊かに実を結ぶことが出来るのです。
あなたは、古い革袋の中で生きていませんか。是非、新しい革袋の中で歩んで参りましょう。
どうしても必要なこと―罪のゆるし
(週報 三一七六)
イエスは彼らの信仰を見て、「人よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。 ルカ五・二〇
罪の話は嫌いだという人がいますが、罪の問題は、人生においてとても大事な事です
イエス様は、中風の人の癒しを頼まれて、まずあなたの罪は許されたと言われたのです。それは、その人の病は罪に起因しており、罪のゆるしが与えられる事こそ、問題解決、神の癒しの恵みが臨む事を知っていたからです。
私達人間は、自覚するかしないかは別として、神の前には罪を重ねつつ生きています。つまり、この世の法は守っても神の法を破ってしまうのです。しかし、それはそのまま放置しておいて良いことではありません。何故なら、罪は、私達の人生から神の恵みの世界を奪うのです。
①罪は神様との交わりを壊します。
②罪、神の恵みを遮断します。
③罪は災いをもたらします。④罪は私達から天国を奪います。
だから、私達が、神の祝福に生きるためにはどうしても罪のゆるしが必要なのです。
では、罪がゆるされるとどうなるのでしょう。
①神との交わりが生まれます。
②神の恵みが流れてきます。
③神の計画に用いられます。
④永遠の天国を見る事が出来ます。
しかし、ここで問題は、この世には私達の罪をゆるす薬はないのです。でも、実に幸いな事は主がおられる事です。何故なら、主は私達の罪のゆるしのために十字架にかかって下さいました。この世界でただ主だけが私達の罪を赦すことが出来るのです。
では、どうしたら、その罪のゆるしの恵みを受ける事が出来るでしょう。それはただ信仰によってです。イエス様は罪をゆるす権威がある事を信じ、ゆるしを求める事です。そうするなら、罪にゆるしが与えられ、神の恵みを受けつつ歩む事が出来るのです。
世界宣教の幻、世界宣教への情熱をもって
(週報 三一七四)
「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」 マルコ一六・一五
今日は、奇しくも、アルゼンチンからの在原宣教師ご夫妻を、又、姉妹教会である韓国、西小門教会からの交流チームを、同じ日にお迎えする事になりました。この方々に共通するものは何でしょうか。それは、「世界宣教の幻、世界宣教への情熱」です。
イエス様は、最後、弟子たちにこう命じられました。
「すべての人々に、福音ー神様は、私達のために、救い主イエス様が与えて下さったーを宣べ伝えなさい」。
まず私達が覚えたい第一のことは、宣教、これは命令です。宣教は、決してどうでもよい事ではなく、牧師や一部の人に任せてすむ事でもありません。主が、すべてのキリスト者に与えられた命令であり、一人一人に与えれた使命です。
第二のことは、宣教の働きは、神様百パーセント、人間百パーセントの働きだという事です。まず私達は、主を知らない人々に、イエスを証しする、伝えていく責任があります。誰かが伝えなくては、主を知る事は出来ません。しかし、同時に、覚えたいのは、人の救いは、ただ聖霊によるという事です。私の力次第でないのです。従って、私達は、宣教の働きのために、聖霊の働きを求めて祈らなければなりません。
最後のことは、宣教の働きは、キリストのからだ全体でなされていく事です。世界宣教、日本宣教、北陸宣教は、一つの教会、あるいは、一人の人によって出来るものではありません。私達の身体も様々な肢体の協力の中で何かが出来るように、世界宣教も、様々な違った肢体、つまりキリスト者一人一人の協力、助け合い、励まし合いの中で出来ていくものなのです。
私達も、主が与えられた「世界宣教の幻、世界宣教への情熱」をもって歩みましょう。
道具も使い方次第、信仰も使い方次第
(週報 三一七三)
「イエスは・・言われた、あなたの信仰があなたを救ったのです。」 マタイ九・二二
近年話題の生成AIに関して、ある識者の方が、「これは便利な道具です。でも、道具ですから、人が、どう使うかがとても大事なのだ」と話していました。それを聞きながら、私は、これは、本当だと、そして、信仰においても、同じ事が言えるなと思いました。
信仰は、ある面、神が私達人類に与えて下さった豊かに生きる道具です。
病に苦しんでいた人が、主への信仰によって病から癒されましたが、信仰は、私達の人生に、神の恵みの世界―絶望に希望を、混沌に秩序を、虚無に意味を、恐れに勇気を与えてくれます。
しかし、その信仰も、使い方、用い方がとても大事なのです。
1 神様の愛を大きく信じて期待すること 同じ祈りでも、神の全能と慈愛を信じて祈るのと、ただ気休めに祈るのでは全く違うのです。
2 魂の救いを大事にすること 主は、癒された事を話すなと言ったのです。何故。それは、一番大事な救いがぼやけるからです。勿論、様々な悩みが解決する事は感謝です。しかし、魂の救い、自分中心の人生から神の中心の人生に変わる事が、私達に最も必要な事なのです。
3 世の評判、喧騒の中で、神の前に静まること 世の喧騒、世の流行に、私達は振り回されやすいのです。しかし、イエス様は、神の前に退く世界を持っていたので、最後まで自分の使命を全う出来たのです。私達にあっても、神の前に退き、神の御心を伺う事が出来る人は、その世の様々な罠から救われることが出来るのです。
神様は、信仰という道具を与えて下さいました。その道具を、どう使うか、それが人生に大きな違いをもたらします。ぜひ、私達は、信仰を上手に使って歩みましょう。
優先順位が人生を変えるー神第一の優先順位を
(週報三一六九)
「まず神の国と神の義とを求めなさい。」 マタイ 六・三三
人々は、イエス様に自分達の町から出ていかないように懇願しました。しかし、主は、「いや、私は福音を伝えねばならない」と言って断り、様々な町々で福音を伝えられたのでした。
ここで私達が教えられる事は、イエス様は、周りの人の声、自分の思い云々ではなく、自分のなすべき事を第一にして、神第一の優先順位をもって歩まれたという事です。ですから、私達もやはり優先順位が人生を変える事を知って、神第一の優先順位をもって歩むべきです。
働きより祈り、礼拝を 私達は、一日を、働きから始めます。しかし、主の御心は、まず礼拝する事、祈る事から始める事です。
行動、結果より、存在、姿勢を 私達は、人生の評価において、何ができるか、結果の成否を優先します。しかし、主の御心は、存在そのもの、生きる姿勢をより大事にする事です。
受ける事よりも、与える事を 私達は、物の扱いにおいて、いかに受けるかを第一にします。しかし、主の御心は、与える事がより大事な事なのです。
人を裁く事よりも、受け入れる事を 私達は、人間関係において、相手の非をさばく事から始めます。しかし、主の御心は、違いよりも、相手の人格を尊ぶことから始める事です。
求める事よりも、聞く事を 私達は、祈りにおいて、しばしば求めるだけです。しかし、主の御心は求める事、願う事よりも主の御声に耳を傾ける事を大事にする事です。
仕事よりも、家族を 私達は、生活の中で、仕事を、自分だけの時間を優先にします。しかし、主の御心は、家族を、親族をまず優先する事です。
優先順位の狂いは、私達の歩みの実りに関わります。あなたの優先順位はいかがでしょうか。
復活信仰をもって歩める人は幸いです
(週報三一六八)
そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。 ヨハネ 二〇・二〇
信仰、人がどういう事を信じているか、それによって、人生が形作られていく面があります。例えば、苦しみも益なりと信じている人は、人生で出会う苦しみを避けず、益としていくのです。
また、キリスト者にあっても、創造信仰、聖書信仰、十字架信仰、復活信仰、週末信仰等々がありまして、その人の信仰次第で、その人の歩みには違いが生まれるのです。
主は、十字架にかかり、墓に納められた。しかし、その墓からよみがえられました。何故でしょうか。主が死に勝つ者である事、主にある人は死んでも天国によみがえる事の証しのためです。それと共に、私達が、復活し、今生きている主を信じる復活信仰によって、力強く、希望をもって、人生の様々な壁を乗り越えて歩めるために復活されたともいえるのではないでしょうか。
では、この復活信仰は、私達にどんな幸いをもたらすのでしょうか。主の復活を信じる私達は、
① 今も、明日も生きておられる主を見つめて、様々な恐れを覚える中で、それらの恐れを乗り越えていく事が出来るのです。
② 死、絶望から復活した主を信じる故に、どんな闇と絶望の中でも、希望をもって歩めるのです。
③ 虚しさの象徴である墓を神の栄光の場所に変えた主を信じる故に 私達から生きる力を奪う虚無、虚しさ、無駄感に勝つことが出来ます。
④ 死から身体をもってよみがえられた故に、今日、自分の死が来ても、死の向こうに天国を見、希望をもって自分の死を迎える事ができるのです
復活信仰をもって歩める人は幸いです。何故なら、復活信仰によって、私達は恐れに勝ち、虚無に勝ち、絶望に勝ち、死に勝って歩む事が出来、前を向いて力強く歩めるからです。そして、その結果は必ず違ったものになります。ご一緒に、この復活信仰をもって歩んで参りましょう。
問題にどのように向き合う―主イエス様と共に
(週報三一六六)
いろいろな病気に悩む者をかかえている人々が、皆それをイエスのところに連れてきた ルカ四・四〇
人生において、問題、試練は付き物です。問題のない人生はない。しかし、その問題とどのように向き合うのか、これで、随分その人の人生の風景が変わることは確かです。つまり、救い主イエス様と一緒に向き合うのか否かで、その問題は、全く違った結果になるのです。
問題のない人はいない。問題が見えないのが問題です
自分の問題を自覚していた人々は主の恵みを求めて癒されました。私達の本当の問題は、しばしば自分の問題がよく見えない事にあります。主の光を受けて歩む時、私達は、自分の隠れていた問題(例えば、自分の罪性、心の傷、考えの歪み等)が見えるようになるのです。
問題があるのは問題ではない。問題とどう向きうかが問題です
主は、主の助けを求めた人々を癒されました。私達の問題は、問題への向き合い方にあります。しばしば、私達は、問題に対して、あきらめや後ろ向きになります。従って、何も生まれません。しかし、私達には、せっかく救い主がいるのですから、主に目を向けつつ、すべては益となるという希望をもって、積極的に取り組んでいく事が出来るのです。そうするなら、その問題は、私達に益を、新しい世界をもたらすのです。
問題は、ただの損失ではなく、しばしば、神の御業の舞台です
人々は、病や悪霊の問題を通して、主の恵みを味わいました。問題は、確かに厄介ですが、しかし、しばしば、その問題に、主にすがりつつ取り組んでいく時、その問題が神の舞台になり、神の恵みの御業がそこに現れるのです。
あなたは、人生の起こる様々な問題、困難に、どのように向き合っているでしょうか。
世を明るくする人にーことばと力によって
(週報三一六五)
わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、闇の内を歩く事がなく、命の光をもつ ヨハネ八・一二
この世界には、世を明るくし、温かくする人と、世を暗くし、冷たくする人がいます。私達は、やはり、世の光として、世を明るくする歩みをするように期待されているのです。
そこで大事な事は、やはり、ことばと力ではないでしょうか。力があっても、正しい言葉がないと、暴走が起こるし、正しい言葉があっても、力がなければ、何も生まれていきません。世の光イエス様には、まさに、この二つがったのです。
イエス様には、世を明るくする言葉、神のことばがあります。
主は、私達の人生を建て上げるための大事な教えを教えて下さったのです。主は、いかにして生きるべきかとともに、何故、何のためをも教えて下さいました。人間とは、人生きる目的や意味とはについて、更に、見えない世界や永遠の世界についても、教えて下さったのです。
イエス様には、世を明るくする力、神の力があります
主には、教えと共に、超自然的な力と権威があったのです。ザアカイ等、歪んだ心と人生を健全に変える力。また、ゲネサレの狂人等に見る悪霊から解放する権威、盲人の目を開く等の病をいやす権威。そして、嵐を鎮め、ぶどう酒を水に変える等、様々な問題を解決し、必要を満たす力があったのです。
私達は、何と幸いでしょうか。私達が、主との交わりを大事して歩む時、この世を明るくしていくための「ことば」と「力」、この二つを主から頂く事が出来るのです。どうか、主から神のことばを学びましょう。自分の限界ばかり見つめずに主の力を求めましょう。それによって、日々、世の光、世を明るくする歩みをしたいものです。
誘惑―破壊者悪魔に惑わされないために
(週報三一六〇)
敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている 一ペテロ五・八
どうして神が治める世界、人生に、こんなにも醜いことが起こるのかという人がいます。聖書は、その答えとして破壊者悪魔の存在を告げます。悪魔は破壊者あり、私達に嘘をついて惑わすのです。今日も、どれほど多くの人がその破壊者の誘惑の餌食になっているでしょうか。
イエス様も悪魔の誘惑を経験されましたが、悪魔はどのように私達に囁くのでしょうか。
1 「生きて行ければいいではないか。食物が、金が、能力があれば、それで大丈夫だ」。しかし、本当にそうでしょうか。獣のようにではなく、人間らしく生きるためには、やはり、私達は、食事と共に、神の教え、生き方、生きるための物差しを学ぶ必要があります。
2 「神よりも、自分の成功が第一、繁栄が第一ではないか」。本当にそうでしょうか。神様は、偶像礼拝を嫌われます。私達は、何よりも神を第一として、神のみに仕えるべきです。
3 「神を試してみなさい。神が自分の願いをかなえるかどうかを試せ」。本当にそうでしょうか。私達は、神を試すのではなく、信じて仕えるべきです。信じて歩む時、神を見るのです。
では、私達は、どうしたらこの誘惑に勝つことが出来るでしょうか。イエス様は、どのようにこの悪魔に勝ったのでしょう。一つは、聖書によってです。聖書の教えを学んでいく事によって、惑わし、嘘を見破るのです。そして、もう一つは、聖霊様によってです。聖霊の助け、満たしを頂く事によって、見破るのです。そして、最後は、やはり、悪魔に勝たれた勝利者イエス様につながる事によってです。イエス様との交わりに生きる事です。これらによって、私達も、悪魔の惑わしを見破ることが出来、誘惑に勝つ事が出来るのです。
主よ、私達が、悪魔の惑わしを見破り、その誘惑に陥る事がありませんように。
自分の持ち物を大事にー洗礼が与えてくれるもの
(週報三一五九)
持ち物の価値を知らないため、損する人がおり、持ち物を有効に使って、得する人がいます。
イエス様は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けました。その時、聖霊様が主の内に臨んでこられ、そこに神の声が響きます「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ」(ルカ三・二三)。そして、主の公生涯が始まったのです、つまり、救い主としての働きの歩みが始まったのです。
洗礼は、ゴールではなく、スタート、始まりです。そこから、私達の、神の子、神の僕としての人生が始まるのです
では、洗礼を受けると、一体何が起こるのでしょうか。一つは、聖霊様を受けるのです。神の霊が、私達の内に住んでくださり、私達の人格に働きはじめるのです。その働きは、鳩が象徴されていますが、平和の働きをして下さるのです。第一には、神との平和です。悔い改めや励ましなど、神様との関係性が健全になるように整えて下さるのです。第二には、自分との平和です。自分嫌いから、自分を神の最高傑作だと信じるように導かれます。そして、第三には、隣人との平和です。ゆるしや受け入れなど、周りの様々な人と健全な関係を作るように導かれます。
もう一つは、新しい励ましの世界を得るのです。主の時のように、私達にも、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という勿体ない神の声が自分の内に響くようになります。この世を生きる時、私達は、様々な試練や毒の言葉を聞き、傷つきます。しかし、私達は、この神の言葉によって、癒され、励まされ強くされて、力強く、雑音に巻き込まれずに歩む事が出来るのです。
私達は、イエスの名によって洗礼を受けています。ならば、この神様のくれた二つの恵みを信じ、大事にして、人生の荒野を力強く歩んで参りましょう。
キリスト者の宝 聖霊と火のバプテスマ
(週報三一五八)
このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。ルカ三・一六
私達人間は、いろいろ誤解してしまいます。しかし、聖書は、主は、私達をそんな誤解から目を覚まさせ、真理へと導いてくれるのです。
洗礼者ヨハネは、自分のことをメシヤだと誤解した人達に、救世主であるイエス様の素晴らしさを伝えました。しばしば、私達は、誤解し、イエス様の救いの価値を軽く考えやすいのではないでしょうか。しかし、実は、それは、とても価値あることなのです。
まず第一に、イエス様は、単なる偉人ではなく。まさに、全能にして真実な神なのです。だから、この人生を、イエス様と一緒に歩めることは、本当に幸いな、心強い事なのです。
第二に、イエス様は、単なる人生哲学だけを教えたのではなく、聖霊と火のバプテスマを与えてくれるのです。つまり、私達の内に、神の霊が住んでくださるのです。そして、私達を導き、真理を教え、様々な傷をいやし、弱い私達を助け、力を与えてくれるのです。それは、どんなに、人生に違いをもたらすでしょうか。だから、私達は、その霊の火力を弱めないように、礼拝が、教会の交わりが、日々の主との交わりをもつことが必要なのです。
第三に、イエス様は、罪深い私達を、神の審判の時に、安息の地へと導いて下さるお方です。人生には、必ず神による清算の時があります。神は、私達に、その与えた命をどのように使ったのかを問われるのです。その時に、イエス様から永遠の命をもらった人だけが、永遠の安息の地をえる事が出来ます。これは、必ず迎える死を、清算の厳粛さを思う時、何という幸いな事でしょうか。
私達は誤解しやすい。どうか、イエス様の素晴らしさをいつも忘れないようにしましょう。
慈愛と峻厳 神は慈愛のお方、と共に、神は厳しいお方
(週報三一五七)
毒蛇の子らよ・・神の怒りを免れると、誰が教えたのか・・悔い改めにふさわしい実を結べ ルカ三・七
イエス様への道備えをしたヨハネは、何を語ったのでしょうか。それは、あわれみの神の大合唱の中にいる人々に、「神は正義の神、怒りの神でもある」という事でした。これは、今日も、私達が神様を思う時、どこかで意識しておくべき事です。第一に、神は、怒る神であり、悪、不正を裁く神であるという事です。何でもアリ、何をしても怒らない方ではありません。第二に、それを逃れる特権はないという事です。神の前に特権階級は存在しません。第三には、その裁きにあわないためには私達の悔い改めが必要、それも、口先ではなく、実を結ぶ悔い改めです。つまり、生きる姿勢を変えていく事です。それが、神が私達に求めておられる事です
しかし、ここに、神の怒り、裁きから逃れたいと願う私達に一つの問題が生じます。ヨハネの教えを受けた人々も同じだったはずです。それは、「神の怒りを知りつつも、私達は、蝮の子である。自分の内に、邪悪なもの、自己中心、貪欲や妬みの類が住んでいて、正しくと願っても、その通りには行かない」という現実です。「どうしたら、私は救われる事が出来るのか」。
ところが、ここに、慈愛の神の贈り物があるのです。それは何ですか。それが救い主イエス様です。主は、私達の罪、呪いをすべて身代わりに背負って十字架にかかられたのです。そして、ゆるしの道を開かれました。慈愛の神は、昔も今も、すべての人に、こう語られます。「救われたい者よ、あの十字架のイエスのもとに行け、イエス様の救いを求めよ、そうすれば、あなたの罪は許されて、神の裁きにあうことなく、神の恵みと祝福の中を生きることが出来る」。
私達は、神が正義の神、裁きの神である事を覚えるべきです。何故なら、そうしてこそ、イエス様の救いの尊さ、有難さが見えるのです。イエス様、あなたの十字架を感謝します。
神の世界には、霊的順序がある
(週報三一五六)
荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』 ルカ三・四
神様は、まず初めに、洗礼者ヨハネに、悔い改めのメッセージを託しました、そして、その後、救い主イエス様の働きを始めるようになさったのです。この世界でも、順序正しさが生命線である事が多々ありますが、この事実は、霊的世界においても、その順序正しさが非常に大事な事であることを教えています。では、どのような「霊的な順序」があるのでしょうか。
1 神の御声を待ち望むところに、神の言葉が臨みます。 ヨハネは、神の声を待ち望んでいたのです。だから、神の声を受け取れたのです。私達も、日々、神の声に耳をすましてこそ、神の導きを受け取る事ができます。 2 悔い改めるところに、罪のゆるしが臨むのです。 ヨハネは、人々の生活の罪を示し、悔い改めを迫りました。何故なら、主の前に、自らの罪を悔い改めるところにのみ、罪のゆるしの恵み、神との平和が与えられるのです。 3 キリストの救いを求めて、神の子の身分を受けた人が、神の祝福の世界、聖霊の世界を味わうのです。 神と共に歩む幸いは、神の子のみの特権です。私達は、キリストによって、義とされてー神の子の身分を得てこそ、神と共に歩む幸いを味わう事が出来るのです。 4 訓練されてこそ、神に用いられます。 神に用いられた人達は、皆例外なく、準備の時、訓練の時がありました。そうして、神の働き、計画に用いられたのです。訓練を避ける人は、神に用いられる事がありません。5 霊的種をまいてきた人が、霊的刈り取りの実をみるようになります。 種をまかない人は、何かの実を刈る取る事はありません。同じように、信仰の種、祈りの種、愛と奉仕の種をまいてきた人だけが、その実を刈り取るようになるのです。
神様の世界には、霊的順序があることをしっかり覚えて歩みましょう。
人間的、霊的成熟を目指して
(週報三一五五)
キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。 へブル六・一
成長、成熟ということが能力や経済面のみで強調され、人間としての、心や魂の成長、成熟が忘れられるような今日ですが、しかし、聖書は、私達に人間として、キリスト者としての成長、成熟に取り組む事の大切さを教えています。
では、人間として、キリスト者として成熟するとは、どういう事でしょうか。イエス様が、神様に喜ばれ、周りの人にも喜ばれたとあるように、まさに、同じ事ではないでしょうか。どちらかだけではなく、神様にも、隣人にも喜ばれる人になっていく事です。
ならば、そのために必要な事は何でしょう。聖書は、それは神の恵みによってだと言います。ただの頑張りではなく、足りなさを覚えて神の恵みを渇き求める事です。そのように歩むなら、年月と共に、成熟を得ていくのです
1 知恵の恵みによってー主は、知恵の霊を与えて下さいます。どんなに知識があっても、知恵が必要です。神は、様々な情報や知識を賢明に識別し判断する力を与えて下さるのです。2 きよめの恵みによってー主は、聖霊の働きによって、私達の心を広く強く深く変えて下さるのです。3 訓練の恵みによってー主は、愛する者、一人一人に必要な訓練して下します。訓練、試練は、その時は嫌なものですが、しかし、後には、あの訓練のおかげだと神様に感謝するようになります。4 交わりの恵みによってー人は人によって磨かれます。だから、主は、私達に、色々な人との出会いを与えられます。その出会いを大事にしていく時に、鉄は鉄で研がれていくように、研がれていくのです。
今年、私達も教会も、「神に恵みによる霊的な成長、成熟」に挑戦してまいりましょう。
そして、神の恵みによって、人間、キリスト者として、成長、成熟させていただきたいものです。
自画像が、あなたの明日をつくります
(週報三一五四)
あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。一ペテロ二・九
神殿に自分を捜しにきた両親に、少年イエス様は、「私が自分の父の家にいるのをご存じなかったのか」と答えました。この出来事は、私達に、イエス様は、周りの少年と全く同じ様に生きながら、しかし、一面、自分は神の子であるという意識、明確な自画像を持っていた事を示しています。そして、それが、イエス様の実りある生涯、働きを生み出していったのです。
聖書は、繰り返し、健全な自画像、セルフイメージをもつことの大事さを教えています。何故なら、その人の自画像が、その人の人生を彩り、形作っていくからです。
では、神が与えられた私達が持つべき自画像とは、どういうものでしょうか。
自画像 「わたしは、動物の延長ではなく、神のかたちに創造された人間である」 私達は、①魂、霊を持つ者。だから、私達は、体と心と共に、祈りによって魂を養っていく必要があります。②交わりに生きる者。独りではなく、周りの人との交わりに生きる事が必要です。③治めて生きる者だと。本能、欲望をコントロールして生きる事が必要です。
自画像 「わたしは、キリストのゆえに、神の民である」 私達は、①神に選ばれた者です。私達には、生きている限り、周囲がどう評価しようと、神が与えた使命、役割があるのです。②祭司です。私達は、神様と語り合う事が出来ます。神のみ声を聞く事、神に訴える事が出来ます。③御国の民です。この世とは違う神の教えに取り組んで歩みます。④神の所有のものです。つまり、主人なる神の僕として、欲するままではなく、神の御心を伺いながら歩む者です。
私達は、この神が与えて下さった二つの自画像を握って歩むべきです。そうすれば、この信仰の自画像が、私達の明日を豊かに彩り、実りある歩みを形作るのです。
居るべきところに身を置いてこそ
(週報三一五三)
彼はその治世の第一年の第一の月に、主の神殿の扉を開き、それらを修理した。歴代下二九・三
海の中では力強い魚でも、陸の上では生きていけません。やはり、おるべき場所があります。
ヒゼキヤは、祝福を受け損なった多くの王と違い、神の豊かな祝福に与かりました。どうしてでしょうか、それは、彼は、王となった時、まず第一に、壊れていた神殿を修復したのです。それは、神との関係において、自分のおるべき場所を第一にした、つまり、ズレている点を本来あるべき姿勢に修正したのです。
私達は、新年を迎えて、やはり神の祝福を求めます、その点で大事なのは、一番大事な事は、おるべき場所に帰る事です。では、神の子としての私達のおるべき所は、どこでしょうか。
第一、十字架のもとに。自分の罪深さを認め、主の十字架のゆるしを、神との和解を求める場所です。案外、私達はズレて、自分の罪深さが見えなくなり、十字架の身代わりへの感謝が失せるのです。第二、聖書の下に。世間がどうではなく、聖書が何を教えているのかを見つめる場所です。案外、私達はズレて、聖書の上に立って、自分の見識、世間の声で、聖書を学ぶようになってしまうのです。第三、神の栄光のために。人生の目的を、神の栄光のために生きる人にこそ、神の祝福は注がれます。案外、私達はズレて、自分の名誉、自慢、自分の満足のためだけに生きるようになってしまうのです。第四、万事聖霊、ただ神の御霊にのみ頼って。神の祝福は、神のみを頼みとするところに、注がれてくるのです。案外、私達はズレて、自分の肉―金、能力や人脈、世間を頼りにしてしまうのです。
私達も、ヒゼキヤのように、新しい年の歩みを、自らの神殿を修理して、つまり、神の前に自分のおるべき場所に身を置き直して歩みたいものです。
単眼ではなく、複眼で 三つの聖書の知恵に目を向けて
(週報三一五二)
ある文学者が言う。「私達は、単眼的になりやすい。複眼的に考え、生きるべき」。聖書も私達に、神様の教えを、複眼的に見つめて歩むように教えています。
「あなどるな。おじけるな」 私達は、神様が見えないからと侮り、世間、社会を侮り、人生を侮ってしまいやすい。しかし、主は言われる、「あなどるな」、つまり神を恐れよ、世間を大切に、人生を丁寧に思慮深く」という事でしょう。又、私達は、逆の弱さもあります。つまり、妙におじけてしまう。神に、世間に、人生におじけづき、委縮した歩みをしてしまう。だから、主は言われます。憐れみ深い主が一緒に居る事を信じて、おじけるな、恐れるなろ。
「おごるな。卑下するな」 私達は、高ぶりやすいのです。神様のお陰、周りの人のお陰を忘れてしまうのです。だから、主は言われる、どんなに順調でも、「おごるな、高ぶるな」。今あるは、周りの支え、神の恵みの故である事を覚えつつ歩むのです。ところが又、私達は、反対にもなりやすい。つまり、周りの人と比較し卑下してしまう。だから、主は言われる。「あなたは、誰がどう評価し、自分がどう感じようと、私の目には、高価、必要だ」。自らを卑下せず、臆せず、自らのすべき事を粛々となし続けて参りましょう。
「求めよ。与えよ」 私達は、神に自分の願いを訴える事を幼児性の印のように考えていく傾向があります。だから、主は言われます。「口を開けよ。求めよ」。素直に求めてこそ、開かれる世界があるのです。しかし、又、私達は、わが身だけ、求めるだけになりやすいのです。だから、主は言われます。「隣人のために与えよ」。何故なら、受けるだけなら、死海のように、恵みの水は止まるからです。実は、人に与えていく所にこそ、恵みは流れ続けるのです。
この年、私達は、霊の糧、神の教えを、偏食せず、バランスをもって頂いて参りましょう。
信仰の年末大掃除
(週報三一五一)
私のうちに傷のつい た道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」 詩篇一三九・二、三
先日、マイコプラズマ肺炎にかかってしまい、大変ご迷惑をおかけし申し訳ありません。皆様をはじめ、日本中の励ましとお祈りを受けて、回復の中にある事を感謝しております。
昔から年末大掃除が、日本の良き習わしでした。勿論、家を掃除する事もですが、私達の生き方、信仰の大掃除はいかがでしょうか。やはり、その大掃除も大事ではないかと思います。
① 大掃除 恵みを数えて感謝する事です。この一年の神の恵みを振り返ってみましょう。
主よ、恵みに気づかせてくださいと。その時に一番注意すべきは、当たり前病です。振り返ると、結構出てきます。これも、あれも、恵みだ、感謝しますと。 ② 大掃除、自分の歩みの悔い改めです。悔い改めとは、まず、主が今年様々な出来事を通して教えて下さったことを、心に刻む事です。主は、私達を教えて続けておられるはずですから。そして、自らの歩みを整えるのです。次には、自分の罪を告白し、十字架によるゆるしときよめを頂く事です。今年も、なすべき事をせず、なすべきでない事をなし、語るべき事を語らず、語るべきでない事を語ってしまいました。気づいた、それを、告白し許していただくのです。そして、最後には、自分の身分を確認する事です。「私は、主の故に、神の子、神のしもべです」と。 ③ 大掃除 新しい年のビジョを持つ事です。箴言に「幻なき民は、滅びる」とありますように、やはり、幻、夢、目標が、私達の歩みを導いていくのです。目当てがなければ、旅も迷うだけです。新しい歩みに、新しい目標を握りましょう。祈って下さい。主よ、持つべき夢、ビジョンは何でしょうかと。
主が、皆様の信仰の年末大掃除を、祝福し、導いて下さいますように。